http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi?bibid=02468815&aid=ex
あー、啓蒙ですか。啓蒙ねぇ。よくあるはなしなんですが、「蒙
(くら)きを啓く」というのが、そもそもの意味でありまして、そういう態度について批判することがあります。ちなみに面白いことに、あちらでもenlightenment――つまり「明るくする」なんてことばが使われます。啓蒙の精神ってのは同じなんですわね。
で、悪く言ってしまえば、「オマエらは、開化されるべき存在であり、単純に言っちゃえば〈愚民〉なわけ。仕様がないから、おれが教化してやろうじゃぁないか」と、恩着せがましくも人の迷惑顧みず押し掛けてくるようなものです。
さりながら、この「愚民観」というのは少しく考えなきゃ行けないことでありまして、「被治者は基本質的に愚かである」という考え方と、「愚かな人民が存在する」という考え方とでは本質的に相違しているわけであります。
前者は、如何に統治するかというところに眼目があり、人民はどこまでもどこまでも客体的存在でしかなく、あくまで治者の論理であります。しかし、後者は、人民は愚かであるからこれを恢復しなければならないということであり、これが啓蒙主義の論理であります。そこには、ある目標にむかってともに歩んでいこうという精神が存しているのであって、それを単純に「愚民観」と言い切ってしまう態度は、むしろ人民に対する無限の信頼といいますか、いわゆる「民衆信仰」というヤツであって、逆に迷惑な話ではないかと思わざるを得ないのであります。
http://www.ne.jp/asahi/anarchy/anarchy/data/takuboku02.html
石川啄木「はてしなき議論の後」