国民文化研究所
2022-08-29T12:07:38+09:00
kokuminbunka
だらだら思想研究……国民文化をスノッブかつペダンティックに研究しております。
Excite Blog
近代の武士道:オレたちは武士じゃない(1999.07.13)
http://kokumin.exblog.jp/32202328/
2022-08-29T12:07:00+09:00
2022-08-29T12:07:38+09:00
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kokuminbunka
『思想と国民文化』
長い
http://kokumin.exblog.jp/29349261/
2019-04-05T14:13:00+09:00
2019-04-05T14:13:16+09:00
2019-04-05T14:13:16+09:00
kokuminbunka
Fragments
いまどきのweb文章的にはかなり読みにくい。
というか、自分もそうしたweb表現に慣れてしまっている事実にびっくりです。
8回スクロールしないと全部終わらなかった時点で、誰が読むんだろう的な気がしてきましたが、まぁ、20年前のブツをもってきて許されるのは『水曜どうでしょう』くらいなものですわね。>違う
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武士道の歴史(上):武士の成り立ち
http://kokumin.exblog.jp/29349003/
2019-04-05T10:54:00+09:00
2019-04-05T11:00:42+09:00
2019-04-05T10:54:49+09:00
kokuminbunka
『思想と国民文化』
武士道の歴史(上):武士の成り立ち
ええっと、そろそろなにか書かないと週刊にならないので、最近とっても熱い武士道の歴史についてお話ししようかなぁと思います。でもすでに他の所で書いたものをまとめたようなものになるので、多分、新しいことは何もないかと思いますが…。
武士成立前史
「武士道」と申しますのは、武士の道です。
「なんだそんなことわかっているわ」とおっしゃられるかもしれませんが、「武士とはなにか」、「道とはなにか」というとこれまた厄介な問題であります。
で、日本における「武士」ということばの初出は、『続日本紀』の巻八に
「文人武士は国家の重んずる所」
というのがあるのがそれであると言われております。
『続日本紀』は「しょくにほんぎ」と読みますが、まぁ大体奈良朝を中心にした歴史書だと考えていただくとわかりやすいですね。つまり、律令時代です。
ここでの用法は、いうまでもなく「文人」に対句的に用いられていますから、中世の武士というよりは、「武官」の意味が強かったと言えます。東北地方や北海道〔粛慎(みしはせ)のことを言っているのかもしれませんが「北海道」というのは言い過ぎではないかと思います〕を侵略し続けていた古代日本国家にふさわしいことばですね。
「武士」と書いて「もののふ」と読む場合、これは由来が更に古くなります。
「もののふ」というのは「物部」と書きまして、「もののべ」とも読みました。これは、大和朝廷の職掌でありながら、部族の名前でもありました。名前というのは正しくないですね、氏(うじ)というべきでしょう。
「もの」というのは、現代でも「えもの」とかいうように「武器」のことです。したがって「もののふ」も、武官であったと言えます。
武官であるということは、官僚制の内部に定位されていたということを意味します。つまり、その暴力(軍事力)が、恣意的に用いられるのではなく、ある権力意志によって計画的に用いられることになります。まぁだからといって、暴力が宜しいという訳ではないのですが。
そうそう、「さむらい」ということばもあります。「侍」ですね。
本来これは「さぶらふ」の連用形が名詞化してできた「さぶらひ」が更に転訛して「さむらい」になったものです。出現は、平安期だと考えられます。つまり、令外官として検非違使などの形で、外部から導入された新しい軍事力です。
検非違使とか言っている限りではまだ律令の埒内(らちない)なのですが、平安中期以降、貴族のみならず天皇までも武官以外に独自の軍事力を持つようになります。これが、「禁中滝口」「院の北面」や「東宮帯刀(たちはき)」といった武士集団になりました。
しかし、これが貴族によって雇われている限りにおいてはまだ中央(朝廷)の管理内にあったといえます。これが、中央の羈縛を受けなくなると、ここに初めて、現代でいわれているような武士が登場します。
いわゆる武士の誕生
現代の我々が、「武士」という場合、それは封建的諸関係(土地の給与)によって活動していた戦闘者、ないしはその集団全体を指すと思います。
ただし、この「封建的」ということばは、割とくせ者でして、近代史学の洗礼を受けた我々は、「封建制=feudalism」だと考えて、ヨーロッパ中世のそれに同定させてしまうのですが、しかし当の武士たちは、そんなもの知りゃしません。
当たり前です。
大体にして、feudalismなんて英語自体なかったはずですから。
しかし、武士は自らの体制を「封建制」ないしは「封建の制度」と呼びました〔こんな言い方が一般化するのは近世になってからなんですけどね〕。これは、ヨーロッパ中世に溯ること1500年ほど前の中国〔古代の〕殷・周代の国家体制が土地を媒介にした君臣関係を形成しており、これを封建制と呼んでいたところから来るものです。
ちなみに、このことは近世の儒学者にとってうれしい話でした。儒学者にとって周代の治世(封建制)は、儒学の祖である孔子によって模範的な治世と考えられていましたから、同じく封建制である日本は、大陸の中央集権的な国家体制(郡県制)とは違って、ヨリ神聖な統治形態であるということになるからです。
まぁ、ヨーロッパの封建制度と中国の封建制度、さらには日本の封建制度とでは各々内容が違うのですが…。
こういったことを考慮に入れた上で、今日の意味での武士はいつ頃に始まるのかということを考えると、大体平安時代末だと言えると思います。律令制という全国家的支配秩序が崩れ、それに代わる私的な権力(暴力)が必要になってきた時代の産物です。具体的にいうと、荘園を守るための軍事力でした。
本来は耕作地には租税やその他の税がかけられている訳ですが、荘園は貴族や大寺院が持っているので、税は納めないわ(不輸)、国司の監査は入れないわ(不入)と、いわば権力の真空地帯が出来上がっていました。
で、ここが問題なのですが、この荘園というのは、貴族や大寺院が自分で開いたもの〔初期荘園のはなしは置いておいてください〕ではなく、地方の有力農民などが開墾した耕作地を寄進されてできたものですから、名目上所有者は貴族ですが、実際はこの有力農民が管理運営していたものでした。
こういった中で、土地の境界線や利水権などでもめごとが起こると、この有力農民自体が自力で何とかしなくてはならない。なにしろ、国家権力の介入を排除してしまったんですから、警察・裁判権は自分で行使しなければならないわけです。かくしてここに、律令外存在としての武装集団というものが成立します。これが武士の誕生です。
中世の武士とその倫理
「武士道」と言ったときに考えられる特徴としては、「忠君」「勇猛」の二つがあるのではないかと思います〔なんて唐突な〕。これは、間違いないのですが、それが何のための「忠君」であり「勇猛」であったのかということを少し考えて見たいと思います。
中世武士――ここでは鎌倉幕府に所属している武士(御家人)ですが――は、将軍と御恩・奉公関係にあった、と言われます。将軍によって自分の持っている土地の領有権を認証してもらう(御恩)代わりに、「すわ鎌倉」の時は、一命をなげうって働きます(奉公)というものです。
ですから、非常にビジネスライクであったともいえますが、その一方で実際に戦場を共にした主君とは、合理性を越えた感情的なものとして、運命共同体のような感覚が生まれてきます。「将軍の死は我々の死だ」みたいな感じですね。
丸山真男なんかが「情誼的一体感」と呼ぶああいった感覚です。こういうのは感覚なので、論理的には把握できませんが、そういうものがあったんだなぁということだけ理解していただければ結構です。
鎌倉時代というのも、結構争いごとが多く、大きいところでは天皇が捲土重来(けんどちょうらい)を期した承久の乱〔1221〕や二度にわたる元寇〔1274/1281〕があります。いずれの戦争にも、武士は勇ましく戦ったと伝えられています。それは、鎌倉のためとか神国日本を守るためとかいう以上に、「ここでがんばれば恩賞がもらえる」という打算がかなり強くありました。
例えば、『蒙古襲来絵詞』というものがあります。
これは肥後の豪族で竹崎季長〔たけざきすえなが:1246~?〕というおじさんが、「オレが今回の元との戦いで如何にスバラシイ功績を挙げたかを見てくれ」ってんで作らせたものです。で、実際この人は戦場一番乗りを果たした功績で肥後の東三郡というところに恩賞の地を得ています。
ただし、この人は極めてめざましい功績があったので恩賞をもらえたのですが、その外の普通に動員されて、そんなに大して手柄もなかった人たちには、恩賞がほとんど与えられませんでした。というか、与えるべき恩賞地がなかったんですね。
基本的に恩賞地は、戦争をやって滅ぼした相手の領地を分け与えるものな訳ですから、元寇のような防衛戦では勝っても領地は増えないことになります。それどころか、フビライ自体3度目の日本征服計画を企てていたというのですから、勝ったというよりは、休戦状態といった方がよく、鎌倉幕府は九州警衛の軍備を解くことが出来なかったので、これもまた大きな負担となりました。
封建制下の軍事力というのは、基本的に領主個人の持ち物ですから、軍事費は自弁であって、支給されません。したがって、戦争後の恩賞を目当てに軍事費をやりくりしている、そういった自転車操業的なものであったので、一度恩賞がもらえなくなるとたちまち破綻し始め、ついには没落したり、有力な他の御家人の勢力下に入ったりとさんざんな目にあってしまいます。
こういう不満がどんどん募っていったところで、鎌倉幕府が倒され、建武政府を経て、室町幕府が成立いたしますが、この間、基本的に武士の行動規範というものは「御恩があるか」というところに機軸があり、御恩がある限りあなたについて行くし(忠君)、勇敢に戦争しますよ(勇猛)という倫理観を持っていました。むろん、これだけで済む問題ではなく、先ほど申しました「情誼的一体感」というヤツも大きな位置を占めていたので、一概にどちらか一方ということは出来ません。
ところで、しばしば「武士として恥ずかしくない行為」とかいわれますが、高い倫理があったから恥ずかしくない行為をしなかったとはいいにくい〔ところ〕です。と言うのは、基本的に法律(律令)外の存在である武士にとっての法は、習慣です。で、その習慣からはずれるような行為をすることは、必然的に犯罪者になるわけで、結局は「犯罪者になるな」といっているのと同じことですね。
よく、高倉健とかが、「仁義を通さなければなりません」〔!正しい引用ではありません〕などと映画の中で言っていますが、結局あれもアウト・ローである彼れらを規範づけているのは、実定法ではなく、彼れらだけにしか分らない法なわけですね。したがって、近代的な法治国家の観念(rule of low;法の支配)というものとは、まるで無縁です。まぁ、武士は近代にはいないので、それはそれでよしとしましょう。
戦国期の武士道
封建的な武士の在り方を変えたのが、応仁の乱以後の戦国時代です。
封建制は土地を媒介にした支配秩序ですから、経済が土地・農本制から離れて貨幣経済が行くにつれて必然的に零細領主は没落していきます。没落した武士は前節で申し上げましたように、より大きな領主の支配下に入ったりして何とか生きていくことになります。
こういった武士内における淘汰の一方で、新しい武士の形態が登場します。自分の実力だけで戦場を渡り歩く土地を持たない武士です。
一種の傭兵といってもよいのですが、これも支配秩序の混乱と貨幣経済の浸透とが生み出した新しい戦闘者の在り方だといえます。つまり、相継ぐ戦闘の中で兵器が大衆化され、誰れでもこれを保有することが出来るようになる、あるいは保有していないとこの身が危ないかも知れない。「野武士を雇うだ」〔cf.『七人の侍』1954〕という事態になるかも知れない。そういう時代状況にあって、元は農民であったり、商人であったりする人間が、刀や槍を以て戦場に出て、手柄を立てて立身出世するなんてこともありました。
ところで、古来日本には槍というものが存在しませんでした。
古墳から発掘される武器も基本的に矛が多く、槍は見られません。槍と矛とでは、使い方に決定的な差がありまして、端的に言えば、槍は突くもの、矛は斬るものです。
矛や長刀というのは、結構技術がいるのですが、単に突くだけの槍というのは、大して技術もいらないので、いわゆる臨時雇いの兵隊に持たせるのにうってつけでした。ここに、一騎打ちによる戦法から、兵力の大量投入による戦法へと戦術形態が変化するようになりました。このことは、軍事に関る人口を激増させる結果となり、支配階級ではない戦闘者を増やすことになりました。
こういった中で、武士の倫理(武士道)には、実力主義というものが付与されるようになり、家柄や、出身といったもの以上に武勇〔と武功〕がその大きな判断基準となるようになっていきました。つまり、鎌倉時代の御恩・奉公に基づいた家中心の武士道から、個人中心へと重心が移動した、そこまでいうのは言いすぎだとしても、そういうファクターも出てきたということは言えるでしょう。
いわゆる、「ぶへんもの」(武辺者)は戦闘の技術に特化した武士であり、主君に使えるその忠義の度合いによって称賛されるよりも、むしろその勇敢さを称えられたものであったわけです。
無論一方で主君がこういった新しい武士をとりまとめ、そしてともに戦場で闘っていく過程で、情誼的一体感による君臣関係が成立してきます。特にこの場合、家臣としての武士は鎌倉時代のような独立封建領主ではなく、主君から俸禄や領地を直接にもらっているので、主君の没落は即自らの没落に繋がるという実にシビアな環境にありましたから、いやが上にも運命共同体的な観念を抱くようになります。主君の方でも、同盟関係から支配関係に移ったような親族や旧領主よりも、こういった直属の常備軍の方が、いざというとき裏切る可能性が低い分、なんぼか頼りになるというので、大変厚遇しました。こうして、君臣は名実ともに一体化いたします。
ただし、こういった武士およびその倫理は、太閤政権や江戸幕府の成立にともない、徐々にその位置を失っていき、変質を迫られます。それでは、次回は近世の武士道から始めたいと思います。
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愕然として初めて悟る
http://kokumin.exblog.jp/29348451/
2019-04-04T23:11:00+09:00
2019-04-04T23:11:27+09:00
2019-04-04T23:11:27+09:00
kokuminbunka
Fragments
不明を恥じます。
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マンボウ
http://kokumin.exblog.jp/29345016/
2019-04-03T00:32:00+09:00
2019-04-04T23:06:42+09:00
2019-04-03T00:32:07+09:00
kokuminbunka
『思想と国民文化』
『詩経』「小雅」の「瞻彼洛矣」より「君子万年、保其家室」「君子万年、保其家邦」でございます。
瞻彼洛矣、維水泱泱。
君子至此、福禄如茨。
韎韐有奭、以作六師。
瞻彼洛矣、維水泱泱。
君子至此、鞞琫有珌。
君子万年、保其家室。
瞻彼洛矣、維水泱泱。
君子至此、福禄既同。
君子万年、保其家邦。
参照:経書大講. 第7巻 詩經中 - 国立国会図書館デジタルコレクション
なんともめでたい。
なお、「マンボ」でも結構です。万保5年には当然一年中こちらが流れるのであります。
MAMBO No 5 - PEREZ PRADO - YouTube
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新元号
http://kokumin.exblog.jp/29343872/
2019-04-02T13:25:00+09:00
2019-04-02T15:07:14+09:00
2019-04-02T13:25:25+09:00
kokuminbunka
『思想と国民文化』
「英弘」「久化」「広至」「万和」「万保」
の五案だったそうです。
「英弘」「久化」「広至」「万和」「万保」 新元号原案の全6案判明(毎日新聞) - Yahoo!ニュース
なんでしょうこの「万」人気。万歳ってことなんでしょうか。
さてそれはそれとして、
「英弘」「広至」
は国書からもってきたそうで、『万葉集』以外の国書は『古事記』と『日本書紀』なんだそうですが、まぁ、そこからもってくると色々面倒だよねぇと思わなくもなかったので、多分そこからは出ないだろうと思っていましたよ。
ただ、せっかくなので、出典を考えてみましたよ。
「英弘」:『古事記』太安万侶「序」より
設神理以奨俗、敷英風以弘国。
神(あや)しき理を設けて俗(ならわし)を奨め、英(すぐ)れたる風(おしえ)を敷きて国に弘(ひろ)めたまひき
(岩波日本思想大系『古事記』より)
まぁ、悪くはないですが、人名にありがちなのでこれはダメですかね。
「広至」:『日本書紀』巻十九、欽明天皇紀31年(570)四月乙酉条豈非徽猷広被、至徳巍々、仁化傍通、洪恩蕩々者哉。
豈徽猷広く被らしめて、至徳巍巍に、仁化傍く通せて、洪恩蕩蕩に非ざるものならむや。
(岩波古典文学大系『日本書紀』より)
まぁ、原文は綺麗な漢文なんですが、余りに狙いすぎかもしれません。どっちも動詞ってのは良くないんではないかと。まぁ、ここの「至」は「とても」の意味なのですが。
「久化」「万和」「万保」に関しては、「万和」は「ばんな」という読みが引っかかりそうなので、ダメかなぁと思いますが、「久化」「万保」あたりは良いかもしれません。出典を調べる気はしませんが。
とは言え、「久化」の「化」ってのは今時宜しくないとなると、「万保」でしょうか。「万邦」につながるから危険だと言う人はいそうですが。
まぁ、せっかく決めたので、長く使っていただけると有難いところではあります。
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だらだら
http://kokumin.exblog.jp/29332963/
2019-03-27T14:57:00+09:00
2019-03-27T14:57:13+09:00
2019-03-27T14:57:13+09:00
kokuminbunka
設立趣意書
ということで、せっかくですからまたダラダラとやってみようかと思いますが、結局放置なんだろうなぁと思いつつじっと手を見るテストなのであります。
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国産の圧縮形式「LZH」のUNLHA32.DLLの開発中止へ、LZH形式使用中止を呼びかけ - GIGAZINE
http://kokumin.exblog.jp/13421188/
2010-06-07T15:40:11+09:00
2010-06-07T15:39:54+09:00
2010-06-07T15:39:54+09:00
kokuminbunka
そのほか
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20100607_lzh_end/
LZHの開発が中止になるとのことで、なんかやるせない気持ちになりました。
情報化社会における偉大な発明品
http://www.geocities.jp/kokuminbunka_3776/joho.html#lha
なんてお間抜けなことを書いたのが、懐かしいです。
脆弱性情報の対象にならないのが一つの理由のようですが、なんかなぁ。]]>
再生可能メディアとしてのフロッピーディスク
http://kokumin.exblog.jp/11606918/
2009-07-28T09:03:00+09:00
2009-07-28T15:06:45+09:00
2009-07-28T09:03:56+09:00
kokuminbunka
そのほか
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20090727_fdd/
だそうでございます。
たしかに、この数年、FDを使ったことはほとんど記憶にございません。基本的に、物理的なメディアでもってファイルをやりとりすると言うことはかなりレアケースになりつつあります。基本、ネットワーク経由ですよね。まさに、エーテル科学の勝利と申せましょう。
ちなみに当方の業界では、投稿論文は未だにオンラインではございませんで、基本的に紙で提出し、査読通過後、別途記憶媒体を郵送といった感じでございます。
で、ここで問題なのがどういうメディアを使うかと言うことなのですが、だいたいそういう場合はFDなんですな。50kバイトも無いようなファイルのためにわざわざCD焼くのも無駄だなぁと思うわけですよ。FDは再生可能なメディアですので、結構便利だと思うのです。
まぁ、斯く言う当方も、ここ数年自分でFDを購入したことがございません。大体、人から送られたものを再利用して投稿用に回したりしています。まさにFDは天下の回りものと申せましょう。
しかしながら、この数年というもの、FDサプライは減少傾向であり、多量のタンスFDが存在しているのではないかと思います。このうえドライブの生産停止まで行ってしまってはどうすれば良いというのでしょうか。
嗚嗟、こんなことなら日食の時、遮光フィルタとして利用していれば良かった。>なりません]]>
迷惑コメント
http://kokumin.exblog.jp/11571821/
2009-07-23T13:09:56+09:00
2009-07-23T13:09:49+09:00
2009-07-23T13:09:49+09:00
kokuminbunka
そのほか
ご面倒ですが、承認制にしておきます。
しかしまぁ、こんなところまで書き込みにくるもんですな。]]>
皆既日食
http://kokumin.exblog.jp/11557262/
2009-07-21T15:32:00+09:00
2009-07-23T13:11:27+09:00
2009-07-21T15:32:03+09:00
kokuminbunka
そのほか
まぁ、今回の地域が少々北寄りでしたのでよかったのですが、もう少し南の方に偏って、国境的にいろいろ面倒な地域であったらこれまた大変だったのではないかと、天が落ちる訳でもないのに杞憂をいたして日を過ごしております。
さて、猫も杓子も「皆既日食」でございますが、これほど人口に膾炙されながらも、いまだにその「皆既」の意味を正確に説明してくれたメディアにお目にかかったことがございません。いや、皆既日食の構造と申しますか、月と太陽と地球の位置関係がどうだこうだというのは教えてくださるのですが、なぜこれが「皆既」日食というのかということについては、さっぱりでございます。
皆既と申しますのは、「みんなすでに」という意味では当然ございませんで、「既」は「つきる」と読みます。はるかさかのぼること2700年前の桓公三年(BC709)に以下のように載っております。
○秋七月壬辰朔日有食之既〈既尽也……皆既者正相当而相奄間疏也〉(『春秋左伝』)
(秋七月壬辰朔、日の之れを食する有り。既なり。〈既は尽くるなり。……皆な既くるとは、正さに〔日月が〕相ひ当りて、〔太陽と地球の〕間疏を相ひ奄ふなり。〉)
このように、「皆既」と使われており、このコトバが、西洋科学の伝来とともにtotal eclipseの訳語として用いられるようになったわけでございます。
それにつけても想われるのが、「皆既」などということばを、よくもよくも当時の学者が知っていたものだなぁということでございます。もちろん東アジアにおいて展開した経験科学の上に、西洋科学の受容があるわけであって、近代初頭の自然科学者が、和語・漢語に対する深い学識を有していたことは疑いもない事実であります。
思い起こせば、蘭学受容の過程で、これら先人は、それまでの学問には存在しなかった器官(=「腺」)に対して、新たなことばのみならず漢字までも作り出してしまった訳でございます。日食を前にして、その日本語に対する執着に畏敬の念を新たにするとともに、我々の日本語能力の低さをなんとも哀しく思ったりする次第でございます。
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今を生きるエーテル科学
http://kokumin.exblog.jp/11511612/
2009-07-15T00:22:00+09:00
2009-07-15T22:34:49+09:00
2009-07-15T00:22:12+09:00
kokuminbunka
週刊『思想と国民文化』
留学生が日本における心身論(霊魂―身体論)をテーマにお話したのですが、比較としてヨーロッパの心身論についても言及してくれました。その際、キリスト教における復活Resurrectionに関して、「死者の肉体が無ければならないというワケではなく、復活に物理的な肉体は必要ではないと考える人もいる」と、彼は宣いました。
彼が言うには、「復活するときの肉体は、霊魂Spiritによって「空的な肉体」が形作られるので、物理的なこの世の肉体は不要らしい」とのこと。
「嗚嗟、霊魂から作るのね。なるほど。いや、ちょっと待て。その「空的な肉体」ってなんだ?」
当然出てくる質問でございます。とはいえ、なんかどうも要領を得ない回答でしたので、英語で言ってみてと申しますと、
「イーター」
とおっしゃいます。「イーター」と言われても、「マンイーター」しか思い浮かばないなんとも頭の悪い教員で申し訳ございません。
「ごめん、スペル書いて、原文の」
と言ったところ、彼が書いてくれたのが、
ether
でございます。
「嗚嗟、etherですか。ん? そりゃ、エーテルじゃないですか? それを日本ではエーテルと言います。ドイツ語系の読み方です(ホントはオランダ経由らしいです)」
とたたみかけるように言う当方。あちらは
「嗚嗚、エーテルというのですか」
と、あっさり。
かくしてすべてが氷解いたしました。なるほどねぇ、エーテル的肉体でしたか。それなら物理的肉体が無くても良いですよね。
そこで思い出したのが、日頃お世話になっているethernetでございます。イーサネット、イーサネット言っておりますが、よくよく考えてみればエーテルネットなわけでございます。
調べてみますと、どうやら、本当にエーテルネットだったようでありまして、
ethermanage.com
http://www.ethermanage.com/ethernet/ethername.html
によれば、物理的なネットワークの間のメディアとして、エーテルということばを採用したそうです。エチルエーテルなんてインチキエーテルではなく、本当のエーテルが今も生きていることを想いを致しながら、今日もエーテルに駄文を載せているのであります。]]>
再起晩成
http://kokumin.exblog.jp/11511129/
2009-07-14T23:30:40+09:00
2009-07-14T23:30:39+09:00
2009-07-14T23:30:39+09:00
kokuminbunka
そのほか
もう昔のようにHTMLを書くだけの気力がないことを痛感したので、こちらのブログをメインにしていこうと思っております。跡地となったgeocitiesの方には、このブログが埋め込まれた形になっていますので、右下の「跡地」リンクをクリックし続けると、入れ子式にどんどんウィンドウがはめ込まれるので、ちょっと気持ちが悪いです。
そういや、テレビカメラでの画像が映し出されているテレビにカメラを向けると、映像が永遠に映し出されたことを思い出しました。ついでにやった直後、「カメラが壊れる」とエラく怒られたことも思い出しました。
ホントに壊れたのかな。
どうぞ、今後ともどうぞよろしくお願いします。]]>
山の上ホテル物語 / 常盤新平/著 - Yahoo!ブックス
http://kokumin.exblog.jp/6445676/
2007-02-07T09:52:00+09:00
2007-02-07T09:52:51+09:00
2007-02-07T09:52:11+09:00
kokuminbunka
哲学思想系著作 きょうの新刊
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31838356
御茶ノ水駅から明大通りを神保町の方へ参りますと、明大の二つのキャンパスに挟まれた細い路地があります。その道の入口にひっそりと掲げられている「山の上ホテル」の看板。目にはしておりますが、仲々にその実態を知ることが出来ないその「山の上ホテル」を取り扱ったノンフィクションが本書。
ちなみに、明大が「リバティー・タワー」なんて洒落たものを建てたもんで、これが「山の上ホテル」だと勘違いしてホテル予約を取りに来る人もいるとか(明大の先生に伺いました)。
「山の上ホテル」に憧憬はあるものの、なんとも二の足を踏んでしまう方、神保町奈辺を徹底攻略されたい方には必携のアイテムと申せましょう。なお、神保町に参られる際は、「インド風カリーショップ エチオピア」もお忘れなく。見るだけでもいいですから。]]>
簡単ビラの作り方&マンガ・カットCDーROM
http://kokumin.exblog.jp/6020155/
2006-11-11T08:19:06+09:00
2006-11-11T08:19:06+09:00
2006-11-11T08:19:06+09:00
kokuminbunka
哲学思想系著作 きょうの新刊
出版社 発行所 : 日本共産党中央委員会出版局
税込価格 2,980円(本体2,838円+税)
発行年月 2006年11月
判型 B5
ISBN 4530044041
嗚嗟、こういうものを使って作られているのですね、あのビラとか伝単とか怪文書とか。こういうものを用意するあたりが、さすが日共というべきか。一瞬欲しくなりましたが、たぶん当方が望んでいるような「マンガ」はないだろうと思うので、パス。出来れば、北斎漫画をCD-Romで出してください。
ちなみに、
Hokusai Manga Construction Kit
http://www.adgame-wonderland.de/type/hokusai/index.php
というのはあります。]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/