国民文化研究所



開戦の詔書 大日本帝国憲法・教育勅語・大本営発表・ポツダム宣言・終戦の詔書

開戦の詔書 大日本帝国憲法・教育勅語・大本営発表・ポツダム宣言・終戦の詔書 / 自由国民社編集部/企画編集

嗚嗟、こういうものが売れる時代になったのですね。当方の気になるところは、大本営発表がどの程度網羅されているのかということであります。まさか、「西太平洋ニ於イテ米英ト戰爭状態ニ入レリ」だけしか入っていなかったらまことに遺憾であります。

こういったものをありがたがる方々の気持ちもそれ相応に分かるのでありますが、「帝国ト共ニ、終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ、遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」といったあの「遺憾ノ意」が、今日どこに行ってしまったのか、ということを想起していただきたいわけであります。それは、一つの「戦後責任」といえるかもしれません。

かつて、日本の国家元首が次のような「痛切な反省の意」を表明したことは、周知のところであります。

    わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

この発言があの村山という爺さんによって発せられたと言うことが、やはりことばの重みをもたせているわけであり、今日も本気でこの路線で色々やってくれれば、面倒も少ないのにと思わなくもないのですが、それはそれとして、ここで問題にしたいことは、ここには、あの「遺憾ノ意」は全く存在しないということであります。ただひたすらに、「日本一国がアジアを戦争に落とし込んだ」という「罪」を謝しているわけです。

しかしながらこの「日本一国がアジアを戦争に落とし込んだ」という罪の意識は、「日本 vs. 世界(=アジア)」という図式を当然のように想起させるわけであり、返す刀で日本一国が戦争被害者であるかのような認識(ABCD包囲陣!)をもたらしかねないのであります。このことは、「唯一の被曝国」という主張が何を意味するのかと言うことについて改めて考えさせるものでもあります。むろんそれは被曝自体のもつ普遍的な意味を否定するわけではないのですが。

歴史的文脈から切り離された責任論は、あまりにも空虚です。なぜ日本帝国があのような行為を致したのか、という真摯な検討を、結論からではなく、事実に基づいて考える必要があります。結果論では「勝っていたら正しい戦争だった」ということになりかねないのであり、それをすべて「誤った国策」「独善的なナショナリズム」ということに収斂させてしまってよいのでしょうか。日本帝国には、アジアを戦争に「落とし込んだ」責任もありますが、アジアを戦争に「導いた」責任もあるはずです。責任とは結果に対してだけではなく、行為そのものにもあるのではないかと、「東アジア共同体」なるものの構築が論議せられるたびに、斯く思うのであります。

東アジア共同体評議会[CEAC,ASEAN+3,政策プラットフォーム,調査研究,政策提言,シンクタンク,東アジア共同体,地域統合,産官]
http://www.ceac.jp/j/
空論「東アジア共同体」
http://www.ceac.jp/j/column/050404.html
岩波新書 東アジア共同体
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0411/sin_k202.html
評論:今まさに築かれる東アジア共同体、その価値観--人民網日文版--2005.11.15
http://www.people.ne.jp/2005/11/15/jp20051115_55151.html
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by kokuminbunka | 2005-11-26 10:26
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だらだら思想研究……国民文化をスノッブかつペダンティックに研究しております。
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