福沢諭吉の「科学のススメ」―日本で最初の科学入門書「訓蒙窮理図解」を読む
という本がでるそうです。で、紹介のトコロに、〈「窮理」=当時の言葉で、科学全般、特に物理学のこと〉とあるのですが、これはいかがなものかと思わなくもなく。
本来「窮理」は、儒学におけるところの「格物窮理」に由来するものであり、この四文字熟語がつづまって、「物理」になったというのは衆目の一致するところなのであります、って誰れだオマエは。
まぁ、それはさておき、宋の程伊川は、一事一物の理を窮めてゆけば、ある瞬間に「豁然貫通」するに至ると、まぁ禅宗テイストなことを言ったわけでありますが、とにもかくにも、「格物・致知・誠意・正心・終身・斉家・治国・平天下」といういわゆる「八条目」の第一の工夫(くふう)として、この「格物致知」を位置づけたわけであり、その意味では、およそ自然科学とは縁のないことばであったともうせます。
ところが、19世紀の中葉になりまして、ヨーロッパの――とくにプロテスタント系の科学知識が入って参りますと、その精緻さに驚くわけですよ、儒学者ですらも。そのなかで特に注目されたのが数学であり、その延長上にある物理学でありました。まだ、そんな名前は付いてませんが。
たしかに、朱子学における「理」の大系もそれ相応に精緻だったわけで、森羅万象、人間の特性、行き方来し方すべてが陰陽五行で説明がついたわけですから、たしかにそれはすごい。sごいけれど、やはりそれは形而上学でしかなかったと申せます。そのため、むしろ西洋のphysicsをこそが「窮理」であると考えるようになった人々が現れるようになり、かくて格物窮理の学はその出自を離れて新たな意味を持つようになったのであります。
で、こういう事態は、physicsそれ自体においても起きておりまして、そもそも、このphysicsはギリシア語のphysikeすなわち自然学に由来することばでありました。つまりこちらも、まことにもって思弁性の高いトコロからやってきたのだと申せます。
まぁ、お里が知れたからといってどうこう言うわけではないのでありますが、遡れば遡るほど学問というのは源を一にしていくのだなぁということを知り、専門分化でタコツボ化している現状を思い、カニと戯るわけであります。