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国民文化研究所



近代の武士道:オレたちは武士じゃない(1999.07.13)

これまでは、武士の倫理としての武士道を取り扱ってきましたが、近代以降はそうはいきません。それは端的に武士の消滅と云うことに起因しますが、それでも武士道ということばは生き残っていきます。今日はそこらへんについて。


明治国家と武士道

 近代には武士はいません。それは、革命とも云うべき明治維新によって封建制が廃棄されてしまったせいでもあります。しかし、その一方で明治国家が武士それ自体を嫌ったという側面もあります。いやしくも国民国家たらんとするものは、国民の間に身分の差別があってはいけないのであって、武士だの町人だのと云った差別はいけないと云うのがその理由でした。華族制度があったじゃないかと言われるかも知れませんが、権利的には基本的に誰れでも華族にはなれたという原則があります。まぁ、権利だけなんですがね。権利だけというのが非常に近代的です

 他にも武士が嫌われた理由としては、以前も「軍人勅諭」に関して申し上げましたが、天皇制国家である明治国家にとって、「武士ともの棟梁たる者に」「政治の大權」が落ちた「凡七百年の間」の「武士の政治」は「我國體に戻り且つは我祖宗の御制に背き奉り淺間しき次第」なわけです。「あさましい」ですよ。ひどいいわれようですね。しかも、「国体にもとる」なんて書かれてしまっています。これが昭和時代であったら、武士なんてのは非国民ですね、ハイ。この「軍人勅諭」が出されたころは、まだ元武士もいましたから「世の樣の遷り換りて斯なれるは人力もて挽囘すへきにもあらすとはいひなから」なんて配慮が見られますが、とにかく、「武士の政治」の時代というのは天皇制にとってはイレギュラーでしかないわけです。にしても、仮りに当時天皇統治が2500年あったとしてその700年ですから、全期間の1/3から1/4くらいはイレギュラーと云うことになります。歴史学的に云えば、1/2はイレギュラーですな。というか、これだけのものをイレギュラーということ自体科学的ではないと云えます。

 明治国家の建設者たちというのは、ある意味で反逆者です。つまり、既存の体制を破壊し新しい体制を作ったという点で反逆者です。武士に限らず、こういった裏切り行為というのは相当の理由がない限り難しいのでありまして、木戸孝允なんかは「小忠小義に殉ずることなく、大忠大義に報ぜよ」なんてことを言って合理化しようとしました。小忠小義――つまり主君や藩と云った小さいところでの忠誠心の貫徹ではなく、ヨリ高次の、天皇に対する忠誠心(大忠大義)を尽しなさいってことですが、残念ながらやっぱり詭弁です。どのように言い訳しても明かに主君を裏切っているわけですから、その倫理的な転倒性はどうにも掩いようがない。幕臣から明治政府の役人になった人の問題については、福沢諭吉が『明治十年丁丑公論・瘠我慢の説』という本の中で、勝海舟と榎本武揚を題材に論じていますのでここでは省きます。

 こういった十字架を背負った明治国家の建設者は、従って封建制というものは悪いものだ、暗黒時代だ国体にもとる浅ましき時代だと云うことを強調し、明治の御代はなんて素晴らしいんだ、ビバ明治国家! と自画自賛することで、自らの革命の正統性を強調します。これは、革命の初期にはよくある現象です。たとえば、フランス革命で使われたアンシャンレジーム Ancien Regime ということばもそういう傾向を有しています。つまり、王政ってのはアンシャンなんだ英語で云えばエインシェント ancientなんだ、古くさい廃棄されるべきものだったんだと云う形で、倒してしまった体制を評価することで自らの体制の価値を高めるわけです。

 ここから少し話がややこしくなるのですが、確かに明治国家は武士階級というものを否定するのですが、武士の有していた倫理観というものまでを否定したかというと、仲々にそうは云えないものがあります。封建制度はなくなりましたが、元武士というのはたくさんいたわけです。明治国家の政府を構成しているそのほとんどは武士階級の出身ですから倫理の話になるとどうしても地金が出てくると云うか、そういうコンテクストでないと話が出来ないと云うところがあります。先ほどの「小忠小義から大忠大義へ」というのも武士倫理のコンテクストの上に乗った論理といえます。

 結局のところ、明治時代におけるインテリゲンツィアの多くは武士階級をその出身母胎としているために、倫理を考える場合どうしても武士の地金が出てこざるを得ないわけです。で、それ自体はさほど悪いわけではありません。しかし、日本人の大多数は武士階級の出身でも何でもないのですから、縁もゆかりもない武士階級の倫理を「日本人の国民道徳」なんていわれるとかなり困ります。町人にも町人なりの倫理というものがあったのですが、どうもあまりよい評価が与えられなかったように思えます。これには、町人が自らの手で自らの倫理を体系化しなかった(乃至は「しえなかった」)と云う事情の他に、武士階級の有していた賤商論的な見方が関わっていると思います。

 ところで、日本における賤商論は武士の専売特許ではなく、実に最近まで日本の学術を規定しておりました。これは、偉大なマックス・ヴェーバー先生の不朽の労作である『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中に、「日本や中国なんてのは倫理がないから、その資本主義は賤民資本主義にしかならない」なんて規定してくれたおかげで、日本の町人というのは前期的資本主義(あるいは原始蓄積)の段階にあったとしても、それは賤民のつまり儲けることだけが優先されるそういった賤しい人間のやる資本主義である、と云うことになりました。誠に有難いことです、正しくはありがた迷惑ってヤツですが。(但し、ヴェーバ自身ユダヤ人の冒険的資本主義を賤民的だと言ったので、日本や中国を名指しして賤民的とは言っていません。しかし日本や中国には「禁欲のエートス(倫理的傾向性)がない」ともいうので、そういうところから日本の学者が日本を賤民資本主義と規定したので、いわば自業自得というか金科玉条です。)

 それはそれとして、明治時代における体系的な倫理思想は、外から移入したもの、あるいは保守的な目的で復興された儒教道徳以外は、基本的に武士道に基盤を置くものでした。福沢諭吉は、「門閥制度は敵でござる」と言ったように封建制というものが大嫌いでしたが、結局最後には、倫理として武士を以てこざるを得ないと非常に残念がっています。そうした明治期の倫理学説として特筆されるべきなのが、新渡戸稲造の『武士道』ではないかと思います。

 『武士道』は元々英文で書かれたことからも分るように、国内に対してと云うよりも世界に向けて発表したものです。で、原題が“Bushido, the Soul of Japan”と云うんですから、気負ってます。直訳すれば「武士道―日本の魂―」ですね。大和魂と関係があるのかは分りませんが、「日本人にはこれしかない、決定版だ」と云うことなのでしょう。内容は新渡戸自身がキリスト者であることから、日本におけるキリスト教の在り方について述べており、『葉隠』のように「死ね死ね」とか言いません。当たり前ですが。

 具体的には、日本にキリスト教が育つには、人々の心の底に流れている道徳的特性の合成体としての武士道が思い起こされなければならないと新渡戸は言います。じゃぁその武士道はどういうものなのかのかと云うと、「卑劣な行為を忌む義」「敢為堅忍としての勇」「惻隠の情たる仁」「礼儀作法」「信実としての誠」「名を惜しむ」「忠義」「克己」などのもろもろの徳から成っているそうです。そして、為政者の道徳としての武士道は消滅する運命にある、とする一方で、武士道を形成していた個々の道徳は日本人の土壌として残っているのであり、新しい道徳(キリスト教)はその上にのみ結実しうるであろうと説くわけです。ここらへん、内村鑑三がも日本の思想的伝統を道徳の高さとしてとらえ、自らの信仰を「武士道の上に接ぎ木されたるキリスト教」としていたのによく似ています。

 「為政者の道徳としての武士道は消滅する運命にある」と結論づけたのは、一つの見識であると思います。こういった、武士道から階級性(支配者性)というものを排除し、近代に適応した形での武士道を提示しようと云う動きは、キリスト者に限らず明治知識人の一般的な傾向でありました。むろん、武士道から階級性を排除してしまった時点ですでに近代以前の武士道とは本質的に異なって参ります。また一方でこのように武士道を分解・分析し、徳目にまで純化させてしまうと、その徳目が独り歩きするという事態が起ります。つまり、ここで武士階級にとっての武士道は系譜的にその命脈を完全に断たれ、総ての日本人に適応可能な或る範型 prototype として普及するようになります。もはやここまでくると新渡戸の予想を超えて、「日本人=武士道者」という等式が国民道徳として教育現場で普及徹底されていくようになります。

 こうして武士道は国民道徳として、明治国家にとって都合のよい国民を作るために、修身や国語や歴史の時間にたたき込まれるようになります。新渡戸の『武士道』に前後しますが、「教育勅語」に謳われた「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」というあの一節、これはあの「いざ鎌倉」という「忠義」徳目の対象を天皇にすり替えたものだといえます。しかも「勅語」にいわせると、こういった「義勇奉公」は「此レ我カ国体ノ精華」なのですから、武士道も名誉恢復という感じが致します。

 しかし、よく考えてみればあの「いざ鎌倉」というのはそもそも如何なるものであったかというと、例えば承久の乱(1221)では、武士の政権を覆そうとする京都朝廷から鎌倉を守ろうというものだったわけで、武士の持っていた「義勇奉公」は天皇なんかには向いていなかったわけです。つまり、先ほどの木戸孝允の言葉を逆手に取れば、「大忠大義に殉ずるのではなく小忠小義に奉じよう」、観念的な天皇なんかではなく現実に目の前にいるこの主君のために働こうというものでありました。当時存在していた武士道を持ち込んで天皇崇拝の教育を行うこと自体が自己矛盾と云うことになります。

 この点について最も早い時期に且つ最も先鋭的に糾弾したのが、北一輝『国体論及純正社会主義』です。これについては、もっと深く追究したいところですが、簡単にいうと古代から変わらずに尊皇の伝統を我々の祖先は有していたわけではないし、むしろ国家が強調する「義勇奉公」なんてのは天皇に対してではなく、現前の主君のためのものであったわけで、その意味では日本国民は総てが天皇に背き国家に負いた「乱臣賊子」なんであって「忠良ナル臣民」なんてものを過去に求めるのは、アナクロもいいところだ、と北は喝破します。なかなか小気味いいので機会があったらお読み下さい。

 こういった非難を力尽くで押さえ込みながら、「日本人=武士道者」という教育は徹底されていきます。修身では美しく死んだ武士を賛美しながらも、その武士が何のために死んだのかについてはほとんど触れられることがありませんでした。実際は、御恩のためとか天皇ではない現前の主君のためとか色々理由はあったのでしょうが、そういうことは一切無視して、潔く、パッと咲いては散るようなそういった桜のような人間像だけがひたすらもてはやされるようになります。かくして『葉隠』が再発掘され、「武士道のあるべき姿」なんて感じになってきます。そもそも『葉隠』というのはきちんと刊行された書物ではなく、佐賀藩の内部で通行していたいわば秘書(秘密の書)であり、その受け取られ方は様々でしたが、別名を『鍋島論語』と呼ばれたように、或る種の主君第一的な修身の読み物と見做されていたようで、同藩出身の大隈重信が明治になって『葉隠』をかなりこき下ろしています

 明治国家における教育の主軸は二つありました。一つが初等教育であり、もう一つが軍隊です。この軍隊においても、「軍人勅諭」に「我國體に戻り淺間しき次第」と言われながら武士道の教育、正しくは、軍隊に都合のよい形での武士道徳目の叩き込みがなされました。これは日露戦争以後とくに強力に打出されます。これは、日露戦争といういわば総力戦(日本だけですが)を経て軍隊内部(特に最前線の兵隊)で戦争を忌避する傾向が現れてきたことへの対処であろうと思います。

 田中義一という山県有朋の一の子分がいました。この人は後に陸軍大将からとらばーゆ(古い)して、政友会の総裁になり、その際に軍の機密費を持参金として持ち込んだんじゃないかなどと噂されつつも、首相になり山東出兵なんかやったりしていましたが、結局張作霖爆殺で天皇に怒られてビックリして自任し翌年心労が重なりなくなってしまったというちょっと可哀そうな人です。如何に天皇に力があったかがわかるよいエピソードですね。それはそれとして話を戻しますが、田中義一がまだ陸軍少将だった頃に、将校団に対してこういう講演をしています。

 原則として、将校は兵隊に「死ね」と命令できる。できるが、そのように兵隊をし向けるのは結構難しい。そこで出てくるのが、日本人だけが持っている「義理」と云うものであって、上下の間に「恩情」「情誼」と云ったものが深く存しておれば、部下は将校にどこまでも付いて行かざるを得ない。「そこで初めて死生を共にするといふ心」が起る。「義理」というものは、「能く人を縛ることが出来る、また人を殺すこともできる」わけで、それが「隊長としての真価」・「統御の妙」なんだといいます。

 ここでは、武士道の徳目を叩き込むと同時にその倫理的構造をも利用して、兵隊を如何に効率よく殺すかと云うことが検討されています。つまり、鎌倉武士の「御恩―奉公」関係がここではもう一度――しかも明かに御恩が皆無に等しいような状態で――復活しています。大体にして、「恩情」や「情誼」などと云っていますが、兵隊はどんなに奉公したところで反対給付は基本的にありません。「忠良ナル帝国臣民」がそのように努めるのは、臣民の義務だからです。将校が個人的に何かするとしても、ぜいぜいお汁粉をおごるとかそんな所でしょう。そもそも鎌倉武士が命を懸けて守ったものは、主君と同時に主君からもらった自らの生計(所領)です。これはまさに「一所懸命」といえますが、はたして将校の「恩情」や「情誼」には命を懸けるほどの価値があったのかというと甚だ疑問です。また、「死生を共にする」にしても、兵隊は死生を共にせざるを得ないかも知れないが、一方で将校自身はどうなのかと云うことも気になります。なお、この田中の講演を私に教えてくれたのは城丸章夫という方の『星とさくらと天皇と』という新書ですが、このこの方はこういう似而非な恩情関係を「与太者の論理」「私兵化」と呼んでいます。なかなか云い得て妙ですね。特に与太者に関しては現在でも一部の政治結社の方で残存しているとも書いてあります。

 日本の軍隊に関しては色々問題があるので今回は触れませんが、武士道はここでも人間を支配するためのツールとして用いられていたことがご理解いただけたかと思います。倫理がそれ自体を目的としてではなく、単に他者を支配する手段として用いられるとき、それはもはや倫理ではなくイデオロギーと呼ばれます。イデオロギーについては、すでに申し上げましたので繰り返しませんが、近代日本における、より精確にいえば明治国家における武士道は、初めから服従を意図して教育の現場に持ち込まれ普及徹底がなされたものでありました。そこには、「日本人=武士道者」というハリウッド映画も斯くやと言わんばかりのステレオタイプ化された日本人像が造られており、日本人はその鋳型にはめ込まれていました。これは、国民の創造であり、一方で人間性の抹殺でもあります。既存の倫理観念を廃棄させ、イデオロギーに服従させる、しかし人間はそれほど頭が悪いわけではないので、面従腹背と云うのが正確なところだったと思いますが、それはまた逆に良心における倫理をも混乱させることにもなりました。

 わたしたちの多くは武士の子孫でもありませんし、且つまた現在武士でもありません。我々の倫理は我々自身の手で磨き上げ、あるいは造り上げるべきであり、決して権力やその他外部からの圧力によって形成されるべきものではありません。「日本人であればこのような道徳を持っているべきだ」、「こういうものに敬意を払うようにしなさい」などというのは余計なお世話というものです。私たちは或る国民である前に一個の人間として在るのです。自分自身の格率(自己律法)は自ら作りなすべきではないでしょうか。


# by kokuminbunka | 2022-08-29 12:07 | 『思想と国民文化』

長い

20年前の文章を貼り付けてみた訳ですが、長いな。

いまどきのweb文章的にはかなり読みにくい。

というか、自分もそうしたweb表現に慣れてしまっている事実にびっくりです。

8回スクロールしないと全部終わらなかった時点で、誰が読むんだろう的な気がしてきましたが、まぁ、20年前のブツをもってきて許されるのは『水曜どうでしょう』くらいなものですわね。>違う

# by kokuminbunka | 2019-04-05 14:13 | Fragments

武士道の歴史(上):武士の成り立ち

このページは、1999年06月25日にupした「武士道の歴史(上):武士の成り立ち」を誤字や中二っぽい表現等を直したうえで再掲したものです。〔 〕は2019年04月05日付の追記です。しかし20年前のものを読まされるのも辛いなぁと思いながら、そんなに自分の中で勉強が進んでいないことにびっくりでもあります。

武士道の歴史(上):武士の成り立ち

ええっと、そろそろなにか書かないと週刊にならないので、最近とっても熱い武士道の歴史についてお話ししようかなぁと思います。でもすでに他の所で書いたものをまとめたようなものになるので、多分、新しいことは何もないかと思いますが…。

武士成立前史

「武士道」と申しますのは、武士の道です。

「なんだそんなことわかっているわ」とおっしゃられるかもしれませんが、「武士とはなにか」、「道とはなにか」というとこれまた厄介な問題であります。

で、日本における「武士」ということばの初出は、『続日本紀』の巻八に

「文人武士は国家の重んずる所」

というのがあるのがそれであると言われております。

『続日本紀』は「しょくにほんぎ」と読みますが、まぁ大体奈良朝を中心にした歴史書だと考えていただくとわかりやすいですね。つまり、律令時代です。

ここでの用法は、いうまでもなく「文人」に対句的に用いられていますから、中世の武士というよりは、「武官」の意味が強かったと言えます。東北地方や北海道〔粛慎(みしはせ)のことを言っているのかもしれませんが「北海道」というのは言い過ぎではないかと思います〕を侵略し続けていた古代日本国家にふさわしいことばですね。

「武士」と書いて「もののふ」と読む場合、これは由来が更に古くなります。

「もののふ」というのは「物部」と書きまして、「もののべ」とも読みました。これは、大和朝廷の職掌でありながら、部族の名前でもありました。名前というのは正しくないですね、氏(うじ)というべきでしょう。

「もの」というのは、現代でも「えもの」とかいうように「武器」のことです。したがって「もののふ」も、武官であったと言えます。

武官であるということは、官僚制の内部に定位されていたということを意味します。つまり、その暴力(軍事力)が、恣意的に用いられるのではなく、ある権力意志によって計画的に用いられることになります。まぁだからといって、暴力が宜しいという訳ではないのですが。

そうそう、「さむらい」ということばもあります。「侍」ですね。

本来これは「さぶらふ」の連用形が名詞化してできた「さぶらひ」が更に転訛して「さむらい」になったものです。出現は、平安期だと考えられます。つまり、令外官として検非違使などの形で、外部から導入された新しい軍事力です。

検非違使とか言っている限りではまだ律令の埒内(らちない)なのですが、平安中期以降、貴族のみならず天皇までも武官以外に独自の軍事力を持つようになります。これが、「禁中滝口」「院の北面」や「東宮帯刀(たちはき)」といった武士集団になりました。

しかし、これが貴族によって雇われている限りにおいてはまだ中央(朝廷)の管理内にあったといえます。これが、中央の羈縛を受けなくなると、ここに初めて、現代でいわれているような武士が登場します。

いわゆる武士の誕生

現代の我々が、「武士」という場合、それは封建的諸関係(土地の給与)によって活動していた戦闘者、ないしはその集団全体を指すと思います。

ただし、この「封建的」ということばは、割とくせ者でして、近代史学の洗礼を受けた我々は、「封建制=feudalism」だと考えて、ヨーロッパ中世のそれに同定させてしまうのですが、しかし当の武士たちは、そんなもの知りゃしません。

当たり前です。

大体にして、feudalismなんて英語自体なかったはずですから。

しかし、武士は自らの体制を「封建制」ないしは「封建の制度」と呼びました〔こんな言い方が一般化するのは近世になってからなんですけどね〕。これは、ヨーロッパ中世に溯ること1500年ほど前の中国〔古代の〕殷・周代の国家体制が土地を媒介にした君臣関係を形成しており、これを封建制と呼んでいたところから来るものです。

ちなみに、このことは近世の儒学者にとってうれしい話でした。儒学者にとって周代の治世(封建制)は、儒学の祖である孔子によって模範的な治世と考えられていましたから、同じく封建制である日本は、大陸の中央集権的な国家体制(郡県制)とは違って、ヨリ神聖な統治形態であるということになるからです。

まぁ、ヨーロッパの封建制度と中国の封建制度、さらには日本の封建制度とでは各々内容が違うのですが…。

こういったことを考慮に入れた上で、今日の意味での武士はいつ頃に始まるのかということを考えると、大体平安時代末だと言えると思います。律令制という全国家的支配秩序が崩れ、それに代わる私的な権力(暴力)が必要になってきた時代の産物です。具体的にいうと、荘園を守るための軍事力でした。

本来は耕作地には租税やその他の税がかけられている訳ですが、荘園は貴族や大寺院が持っているので、税は納めないわ(不輸)、国司の監査は入れないわ(不入)と、いわば権力の真空地帯が出来上がっていました。

で、ここが問題なのですが、この荘園というのは、貴族や大寺院が自分で開いたもの〔初期荘園のはなしは置いておいてください〕ではなく、地方の有力農民などが開墾した耕作地を寄進されてできたものですから、名目上所有者は貴族ですが、実際はこの有力農民が管理運営していたものでした。

こういった中で、土地の境界線や利水権などでもめごとが起こると、この有力農民自体が自力で何とかしなくてはならない。なにしろ、国家権力の介入を排除してしまったんですから、警察・裁判権は自分で行使しなければならないわけです。かくしてここに、律令外存在としての武装集団というものが成立します。これが武士の誕生です。

中世の武士とその倫理

「武士道」と言ったときに考えられる特徴としては、「忠君」「勇猛」の二つがあるのではないかと思います〔なんて唐突な〕。これは、間違いないのですが、それが何のための「忠君」であり「勇猛」であったのかということを少し考えて見たいと思います。

中世武士――ここでは鎌倉幕府に所属している武士(御家人)ですが――は、将軍と御恩・奉公関係にあった、と言われます。将軍によって自分の持っている土地の領有権を認証してもらう(御恩)代わりに、「すわ鎌倉」の時は、一命をなげうって働きます(奉公)というものです。

ですから、非常にビジネスライクであったともいえますが、その一方で実際に戦場を共にした主君とは、合理性を越えた感情的なものとして、運命共同体のような感覚が生まれてきます。「将軍の死は我々の死だ」みたいな感じですね。

丸山真男なんかが「情誼的一体感」と呼ぶああいった感覚です。こういうのは感覚なので、論理的には把握できませんが、そういうものがあったんだなぁということだけ理解していただければ結構です。

鎌倉時代というのも、結構争いごとが多く、大きいところでは天皇が捲土重来(けんどちょうらい)を期した承久の乱〔1221〕や二度にわたる元寇〔1274/1281〕があります。いずれの戦争にも、武士は勇ましく戦ったと伝えられています。それは、鎌倉のためとか神国日本を守るためとかいう以上に、「ここでがんばれば恩賞がもらえる」という打算がかなり強くありました。

例えば、『蒙古襲来絵詞』というものがあります。
これは肥後の豪族で竹崎季長〔たけざきすえなが:1246~?〕というおじさんが、「オレが今回の元との戦いで如何にスバラシイ功績を挙げたかを見てくれ」ってんで作らせたものです。で、実際この人は戦場一番乗りを果たした功績で肥後の東三郡というところに恩賞の地を得ています。

ただし、この人は極めてめざましい功績があったので恩賞をもらえたのですが、その外の普通に動員されて、そんなに大して手柄もなかった人たちには、恩賞がほとんど与えられませんでした。というか、与えるべき恩賞地がなかったんですね。

基本的に恩賞地は、戦争をやって滅ぼした相手の領地を分け与えるものな訳ですから、元寇のような防衛戦では勝っても領地は増えないことになります。それどころか、フビライ自体3度目の日本征服計画を企てていたというのですから、勝ったというよりは、休戦状態といった方がよく、鎌倉幕府は九州警衛の軍備を解くことが出来なかったので、これもまた大きな負担となりました。

封建制下の軍事力というのは、基本的に領主個人の持ち物ですから、軍事費は自弁であって、支給されません。したがって、戦争後の恩賞を目当てに軍事費をやりくりしている、そういった自転車操業的なものであったので、一度恩賞がもらえなくなるとたちまち破綻し始め、ついには没落したり、有力な他の御家人の勢力下に入ったりとさんざんな目にあってしまいます。

こういう不満がどんどん募っていったところで、鎌倉幕府が倒され、建武政府を経て、室町幕府が成立いたしますが、この間、基本的に武士の行動規範というものは「御恩があるか」というところに機軸があり、御恩がある限りあなたについて行くし(忠君)、勇敢に戦争しますよ(勇猛)という倫理観を持っていました。むろん、これだけで済む問題ではなく、先ほど申しました「情誼的一体感」というヤツも大きな位置を占めていたので、一概にどちらか一方ということは出来ません。

ところで、しばしば「武士として恥ずかしくない行為」とかいわれますが、高い倫理があったから恥ずかしくない行為をしなかったとはいいにくい〔ところ〕です。と言うのは、基本的に法律(律令)外の存在である武士にとっての法は、習慣です。で、その習慣からはずれるような行為をすることは、必然的に犯罪者になるわけで、結局は「犯罪者になるな」といっているのと同じことですね。

よく、高倉健とかが、「仁義を通さなければなりません」〔!正しい引用ではありません〕などと映画の中で言っていますが、結局あれもアウト・ローである彼れらを規範づけているのは、実定法ではなく、彼れらだけにしか分らない法なわけですね。したがって、近代的な法治国家の観念(rule of low;法の支配)というものとは、まるで無縁です。まぁ、武士は近代にはいないので、それはそれでよしとしましょう。

戦国期の武士道

封建的な武士の在り方を変えたのが、応仁の乱以後の戦国時代です。

封建制は土地を媒介にした支配秩序ですから、経済が土地・農本制から離れて貨幣経済が行くにつれて必然的に零細領主は没落していきます。没落した武士は前節で申し上げましたように、より大きな領主の支配下に入ったりして何とか生きていくことになります。

こういった武士内における淘汰の一方で、新しい武士の形態が登場します。自分の実力だけで戦場を渡り歩く土地を持たない武士です。

一種の傭兵といってもよいのですが、これも支配秩序の混乱と貨幣経済の浸透とが生み出した新しい戦闘者の在り方だといえます。つまり、相継ぐ戦闘の中で兵器が大衆化され、誰れでもこれを保有することが出来るようになる、あるいは保有していないとこの身が危ないかも知れない。「野武士を雇うだ」〔cf.『七人の侍』1954〕という事態になるかも知れない。そういう時代状況にあって、元は農民であったり、商人であったりする人間が、刀や槍を以て戦場に出て、手柄を立てて立身出世するなんてこともありました。

ところで、古来日本には槍というものが存在しませんでした。

古墳から発掘される武器も基本的に矛が多く、槍は見られません。槍と矛とでは、使い方に決定的な差がありまして、端的に言えば、槍は突くもの、矛は斬るものです。

矛や長刀というのは、結構技術がいるのですが、単に突くだけの槍というのは、大して技術もいらないので、いわゆる臨時雇いの兵隊に持たせるのにうってつけでした。ここに、一騎打ちによる戦法から、兵力の大量投入による戦法へと戦術形態が変化するようになりました。このことは、軍事に関る人口を激増させる結果となり、支配階級ではない戦闘者を増やすことになりました。

こういった中で、武士の倫理(武士道)には、実力主義というものが付与されるようになり、家柄や、出身といったもの以上に武勇〔と武功〕がその大きな判断基準となるようになっていきました。つまり、鎌倉時代の御恩・奉公に基づいた家中心の武士道から、個人中心へと重心が移動した、そこまでいうのは言いすぎだとしても、そういうファクターも出てきたということは言えるでしょう。

いわゆる、「ぶへんもの」(武辺者)は戦闘の技術に特化した武士であり、主君に使えるその忠義の度合いによって称賛されるよりも、むしろその勇敢さを称えられたものであったわけです。

無論一方で主君がこういった新しい武士をとりまとめ、そしてともに戦場で闘っていく過程で、情誼的一体感による君臣関係が成立してきます。特にこの場合、家臣としての武士は鎌倉時代のような独立封建領主ではなく、主君から俸禄や領地を直接にもらっているので、主君の没落は即自らの没落に繋がるという実にシビアな環境にありましたから、いやが上にも運命共同体的な観念を抱くようになります。主君の方でも、同盟関係から支配関係に移ったような親族や旧領主よりも、こういった直属の常備軍の方が、いざというとき裏切る可能性が低い分、なんぼか頼りになるというので、大変厚遇しました。こうして、君臣は名実ともに一体化いたします。

ただし、こういった武士およびその倫理は、太閤政権や江戸幕府の成立にともない、徐々にその位置を失っていき、変質を迫られます。それでは、次回は近世の武士道から始めたいと思います。

# by kokuminbunka | 2019-04-05 10:54 | 『思想と国民文化』

愕然として初めて悟る

令和の意味を、「素晴らしい大和国」という意味だと知って、初めて「美しい国」だったかのだと気付きました。

不明を恥じます。

# by kokuminbunka | 2019-04-04 23:11 | Fragments

マンボウ

落選した「万保」を「マンボウ」と読んでいる人がいて、それはそれで面白そうだと言うことで一応出典を探してみました。

『詩経』「小雅」の「瞻彼洛矣」より「君子万年、保其家室」「君子万年、保其家邦」でございます。
瞻彼洛矣、維水泱泱。
君子至此、福禄如茨。
韎韐有奭、以作六師。

瞻彼洛矣、維水泱泱。
君子至此、鞞琫有珌。
君子年、其家室。

瞻彼洛矣、維水泱泱。
君子至此、福禄既同。
君子年、其家邦。

なんともめでたい。

なお、「マンボ」でも結構です。万保5年には当然一年中こちらが流れるのであります。

MAMBO No 5 - PEREZ PRADO - YouTube


# by kokuminbunka | 2019-04-03 00:32 | 『思想と国民文化』

だらだら思想研究……国民文化をスノッブかつペダンティックに研究しております。
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